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普通のOLからGMへ、運命の決断 THAI PALNET 代表川崎千文さん

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川崎千文_対談
「私、どこに行っても衣食住には困ったことないんですよね。」

 そう話すのは、元消費者金融、日本語教師を経てタイにて会社設立という異色の経歴をもつ女性、川崎千文さんだ。彼女は現在、人材サービス・翻訳を専門とする企業「THAI PALNET ENTERPRISE RECRUITMENT(以下THAI PALNET)」の社長業を営んでいる。彼女はなぜ、タイに来て、そしてタイで暮らしているのであろうか。

中学時代の恩師から「世界」の楽しさを知って

 そもそも彼女が、「世界」という舞台に興味を持ったのは小学生の頃。気づいた頃には異国の物や人に憧れを持った。その関心は両親にも伝わったのか、小学校2年生の時には英語の本、4年生のプレゼントは、なんと「世界地図」だったそうだ。

「憧れというか、【格好いい】というイメージがあったのでしょうね。当時の子でいう光ゲンジみたいなものでしょうか。私の場合はそれが外国のもので、例えば歌手のマドンナなどが大好きでした。」

そんな彼女だから、外国志向のある高校を目指すのも必然といえば必然なのかもしれない。

「私の故郷は山形で、ほとんどの子は県立に行きます。私の行きたい国際科のある高校は、私立のため学費が高いですし、そして遠い。なんせ50km近く離れていましたから。でも、どうしても行きたくって、そんな時、両親を説得してくれたのが、地理の山田先生だったのです。彼は、世界中を放浪する元バックパッカーで、在職中も休暇を利用して様々な国に行っていました。休み明けの最初の授業は、旅の報告会でしたよ。私はその授業が楽しみで仕方なかったです。」

 この山田先生との出会いは、まさに人生のターニングポイントの一つだったといえるという。彼の授業は何よりも楽しかったに違いない。なぜなら、彼女は他の授業中に、普通なら隠れてマンガなどを読むところ、なんと隠れて世界地図を眺める一風変わった子だったそうだ。山形の両親は彼女に安定を望んでいたため、彼女の国際科への想いはこの先生との3者面談を通して初めて伝わる。そう、両親を説得してくれたのもまた、この先生のおかげだっただ。

初めての結婚と異国の地

 希望が叶い、国際学科の私立学校を彼女は順風満々に過ごす。卒業後、消費者金融で勤めることなる。しかし、結婚を機に退職。初めての就職はなんと、たったの10ヶ月だった。そのことに関して、
「使われる感覚に嫌気がさしたんですよ。」と。
退職するまでに、休日を利用しての外国人への日本語指導の資格を取得し、これを手にはるか異国の地、オーストラリアへ飛ぶことになる。ここで気になるのは、彼女の夫のことであるが、

「旦那がとても理解のある人で、私が海外へ行くことに賛同してくれたのです。」

 そして語学指導のために約1年半オーストラリアへ行くこととなる。この間9回の引越しをするなど、とてもユニークな話は、いずれ「外伝」として掲載することにしよう。
ともかく、山形へ帰ってきた彼女は、その暮らしにヘキヘキとしてしまう。なぜなら、この場所は彼女にとってとても退屈なのだ。そんな生活の元に、日本語教師の登録先会社から連絡が届く。 それはタイ渡航に関するものであった。

異国の地タイへこんにちは

「気がついたら、会社からのタイでの人員欠如枠への参加をOKしていましたね。夫にはこれが最後だといって行きました。もちろんタイへいくつもりなど最初はなかったので、現地についてからタイ語の猛特訓です。今と違ってまだ発展途上ですし、場所も地方なので、日本語も英語も使えませんから、ご飯を食べることすら出来ませんでした。」

そうして着いた異国の地、「タイ」。彼女にとっては英語圏であればどこでもよかったのであるが、ここは日本語どころか英語すらほとんど通じない。そんな彼女は、自分の中で期間を決めて奮起することを決心する。まずは、衣食住がまともにできるようにすることからだ。
 そして10ヶ月の期間を終え彼女は日本へ帰ることに。さて、帰国した彼女がとった最初の行動とは・・・。

離婚そして再びタイへ

「気がついたらまた、タイに戻っていました。ほとんど何も持たず。なぜ来たのかはよく覚えていません。ただ、日本を離れたかったのと、タイに友人がいたから。帰国後早々、夫とは離婚しました。約3年。といっても内2年は海外にいたので実質一年のようなものですが。」

そう話をする彼女を見ると、それはあたかも自然のことであったかに感じる。束縛というと語弊があるが、狭い環境には私は似つかわしくない、そんな空気を感じてしまうからだ。

 さて、タイに再び出向いた彼女は、知人の紹介を獲て人材登録の会社に向かう。もちろん働かなければ生きていけない。そして、この事務所にきて数時間後から急遽、彼女の人生にはまるで映画のような、次のステージが用意されていた。

突然のターニングポイントはGM抜擢

「そこのリクルート会社の社長さんに偶然お会いしたのですね。本当に偶然。知人と話したので帰ろうとしていたところですよ。あそこからもう数分早く帰っていたら恐らく今も日本語教師をしていたのではないでしょうか。」

その社長とは、すれ違いが起きてもまるで不思議ではないタイミングで出会うことになる。
数分間、彼女が何者かを確認した社長は、開口一番、側にいた部下に、「次立ち上げる会社のGM(ゼネラルマネージャー)は彼女にやってもらおうと思う。」と突然発表する。もう一度言う。ただリクルート登録をしようと友人をたどってきた彼女に対して、会って数分のその社長は、彼女に新会社のGMという職と地位を与えたのだ。

「正直、私自身どうしていいか、ただキョトンとしていました。YESorNOの返事にYESと答えただけで、突然、普通では決して就けないようなポジションについたのですから。もちろん直ぐにというわけではなく、立ち上げ前での3ヶ月の間は彼の会社で学ぶ時間を与えられました。といっても仕事は自分で見つけて、必要なことは自分で身に着けなければいけませんでしたが。」

メンバー3人で始めたリクルート会社は、立ち上げ3ヶ月で急速に成長を遂げる。もちろん人も増え、よりマネジメント的な仕事が増える。そんな中、お世話になった社長とは徐々に意見が食い違ってくる。

「当時の私としては、やはり実績も出していたことから、人事権など経営に関することに小言を言われることがとても嫌でした。今考えれば彼の気持ちもわかるのですが、とにかくその当時はそれが嫌でした。現場を見ているのは自分で、その中で一緒にやっているメンバーを育てることはとても重要だと。」

ついに、2000年12月28日。日本では寒い冬の季節、しかし、ここタイではまだまだ暖かい季節に、彼女は2人目のターニングポイントの元から離れる決意をする。。この時、彼女は25歳。

決別そして独立へ

川崎千文_対談
彼女は2001年2月、離れて直ぐに新しい会社を立ち上げる。当時別会社と合同で立ち上げようとした会社が白紙撤回したため、その案件をベースに残りのメンバーで立ち上げたのだ。この会社こそが彼女が現在社長業を勤めるTHAI PALNETである。業種は案件元の翻訳業務と彼女が前職で行っていたリクルート業の2つである。
当時、社長は別の方がしており、彼女は筆頭株主となった。

「独立してからは本当にいろいろなことがありました。仲間の死や、裁判事など、実際に経営されている方ならウンウンとうなずいていただけるようなことが何度も。しかし、私は本当に人に恵まれていたと思います。特に立ち上げ後に出会った現在の主人には、彼も経営者であることから様々な意見をもらうことができました。」

これから、そしてタイへの想い

 今後は既存の会社を現地化していき、自身はよりオーナーとして活動していければと語る。そのためにも、社員の自主性を促すために、日本より経営顧問を招き勉強会を開催するなど、社員一丸となって取り組んでいる。

「お世話になったタイにはやはり恩返しといいますか、できれば現地の人たちが中心となってやってもらいたいですね。」

 ここまでの経緯を書いていくと、とても年を重ねられたかのように見えるが、まだ30代前半。大きなチャンスを見事にターニングポイントとすることができた。それができたのは、本人の持っている「行動力」これがあったからであろう。

川崎千文さんからのメッセージ

川崎千文_対談
彼女からの今後世界で活躍を望む人たちへのエールを頂戴したので最後にここに掲載する。

「自分の可能性は無限です。頭で考えることも大事ですが、行動すること、思ったことは言葉にすることが一番大切だと。自分で自分に枠を当てはめる、こんなのは既成概念ではないでしょうか。人には無限の可能性があるので、そんな中でチャレンジしていくと自分の目の前に、わかる形でチャンスがやってくると思います。ですから、年齢、性別、学歴、国籍に関係なくがんばってほしいと思います。」

川崎千文
1975年山形県酒田市出身。 オーストラリア、タイで日本語教師を経て 現地採用で就職後、2001年2月、25歳で独立。 人材紹介会社を設立し、2005年に翻訳会社、 2007年に人事コンサルティング会社を立ち上げる。 “金なし、コネなし、学歴なし”で会社を立ち上げ 全く何もないところから、事業を始めて9年目に突入! 好きな言葉は“無限の可能性” 会社を通して、人の成長、社会の成長、そしてタイ国の成長を願っています。
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