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時代の変化を跨いで夢のバリへ在歴36年カルチャースクール経営Sachikoさん

世界で活躍する日本人TOP > Sachiko
 今から思うと、若い頃に『やりたい!』って思ったことは絶対に叶うものなんだなって思います。当時から思っていたわけではないですけど、そう思ったことは、ほとんど全部叶っていますからね。
バリカルチャースクールanggun代表Sachiko氏
 そう話すのは、バリ島のカルチャースクール「Anggun」を運営するSachiko氏。バリでインドネシア人と結婚し、インドネシアの国籍を持ってから34年。彼女の夢、「インドネシアで生活したい」という夢が叶って幾分か経つ今だからこそ、言える言葉だ。

大阪万博ではインドネシアの通訳担当に
 今から時を遡ること39年。1970年の大阪万博。当時専門学校を卒業したSachikoさんは、大阪万博本部の通訳室にいた。日本はまさに高度成長期へ突入を迎え、開発が進み近代化していく、そんな時代の一角で、彼女はインドネシア人の観光客が来た際の通訳担当としてそこにいた。大阪万博といえば、アメリカ館やイタリア館など、世界中の文化が詰まった建物が並んでいた。千里丘の芝生には太陽の塔が立ちすえて、多くの観光客が集まった。

 インドネシア語の通訳担当は、2人。ところが「実はインドネシア人の観光客がそもそも少なかったようで、一回も通訳の電話はかかってこなかったんですよ。」と苦笑い。それもそのはず、インドネシア人が当時の日本に訪れる人といえば、英語がしゃべられる人が大半を占めたからだ。その間実に6ヶ月。最新式のテレビ電話で待ち構えていたにも関わらず、彼女の電話が鳴ることはなかったという。

 そんなわけだから、この大阪万博でインドネシアに興味を持ったのかといえばそうでもない。彼女がインドネシアに興味をもち、そして恋愛のような、「何故好きになったの?」と質問しても具体的にはわからない、そんな感覚に陥ったのは、実際にインドネシアに行ってからであった。

人生のターニングポイントは一冊の本
 インドネシア語に関心を持ったのは、万博から更に遡り高校生の頃になる。小さい頃からテレビに登場する外国のモノ、とりわけヨーロッパやアメリカといった、「ブロンド髪」や「音楽」に興味はあった。

 興味は年を重ねるにつれ、「なんとも人間くさい、感覚が好きだったんです」と語るように、次第に舗装されていない道を三輪車で走ったり、オートバイの喧騒にもまれたイメージのあるアジア圏に興味が移っていく。語学にも興味はあった。あの独特のしゃべり口調に憧れがあったからだ。高校時代の英語は、アメリカ人が来て授業をしてくれる時があるものだから、気がつけばコミュニケーションが取れるぐらいのレベルに。
 
 そんな時、一冊の本に出会った。この本には、マレーシアとインドネシアについての様々な比較が検証されていた。とりわけ取りだたされていたのが、経済レベルについて。どちらも独立したにも関わらず一方は順調に、他方はなかなかうまくいかず国民が苦しんでいる。そんな内容であったという。もちろん、全てがそういう内容ではないが、少なくとも若かりし頃のSachikoさんにはそう映り「私が行ってインドネシアのために働きたい!」と強く思ったという。

 当時を振り返りながら、「若い時って何かできることがあるんじゃないかって思うことあるでしょ。」と。いたずらっぽく笑みを浮かべる彼女の表情の目はとても純粋であった。

 そんなわけだから、専門学校は興味のある語学学校へ。選択する言語は複数あったが、他の言語に比べ、日本人が理解しやすいインドネシア語はちょうどよかったという。「もちろん勉強はしましたけど、実際に海外に行ってみたら全く聞き取れませんでしたけどね。」と話すように、万博終了後、しばらくしてからインドネシアへ実際に旅立った。

そこは戦後に戻った感覚に陥る助け合いの場
 「とにかく、凄く良かったです。」目を輝かせて話す彼女は、立て続けて理由を教えてくれた。そこには現在の若者とは少し違った感覚があったかもしれない。それは、「高度成長期」を迎えた日本とのギャップであった。
 景気にものが沸いて、物は捨てられ、やんや、やんやとした日本に対し、インドネシア(ジャカルタ、バリ)は電気もない、サラリーマンもいないから、月賦なんてものもない、(生粋の)インドネシア人全員がお金がないものだから、生活レベルも皆同じ。助け合うしかないその現場は、まさに戦後の日本と同じ感覚であったという。
 「殺伐とした日本とは違っていましたね。とりわけバリは『好きな人』ができた感覚。あえて言えば自然や文化、人が良いといえますが、ちょっと言葉ではいいあらわせませんね。」
4ヶ月に及ぶ旅は、VISA切れと共に終わった。彼女はこの時、決意した。

『必ずインドネシアはバリに戻ってくると。そしてバリに住むと。』

バリカルチャースクールanggun代表Sachiko氏2
 
インドネシア大使館勤務からインドネシアへの道を発見
 帰国した彼女が少ししてから働いた先が、日本にあるインドネシア大使館。「インドネシア語が話せて、インドネシアに行った事があることが採用に繋がったんでしょうね。」と話す。そんな大使館にある日、JAPANTIMESの新聞の広告欄を手にした仲間が声をかけてきた。なんと、バリのインターコンチネンタルのホテルが日本人枠の採用募集をしているというのだ。「即座に飛びつきましたね。もう、これだ!って感じでした。採用されてから知ったのですが、バリってまだそこまで有名でもなかったのに、100名近い応募があったそうです。」
 採用されたポイントは彼女の分析によれば3つ。「過去に来たことがある。」、「インドネシア語と英語が話せる」、「行きたいという意志」だそうだ。企業側もただインドネシア語が話せるだけでは帰られる可能性がある。ところが彼女は住みたいというもんだから願ったり叶ったりの人材だったようだ。

 お客は、大体オーストラリア、ヨーロッパ、日本人が1:1:1ぐらいだったという。日本人といえば飛行機代も高いからお金持ちが大半だったそうだ。そういえば、Sachikoさんの飛行機代は会社が払ってくれたことを付け加えておこう。

 そんな会社は2年勤めた。そして、少しの間をあけて・・・

国籍の変更、改宗、夢の実現・・・
 「結婚」。

 それは、彼女にとって、バリに住むという目標にとても近づいた違いない。

 働き先のホテルの従業員の男性と結婚した彼女は、早速婚姻届を出しに行く。「私、今Sachiko Syamsuddinって苗字が夫の名前なんですけど、本当は苗字をかえる必要なかったようです。ところが私も旦那も担当官もそのことを知らなかったものだから、そのまま夫の名前で登録されています。」
 
 宗教はインドネシアの国籍を取る時点で必ず、いくつか決められた宗教の中から選ばなければいけない。夫と同じイスラム教だ。「お祈りや豚の禁止、断食はやりましたよ」。

 苦労したことといえば、外国人同士のコミュニケーション。「日本人同士だとツーカーみたいなものがあるじゃないですか。そこは戸惑いました。でも、日本人同士で結婚したってわからないことなんてたくさんありますからね。結局一緒なんじゃないですか(笑)」

 Sachikoさんにとっては、この時点で一つの目標を達成することができたわけである。高校時代にあこがれたインドネシアは、専門学校、万博を通して一度は行ってみたい場所になった。親にまでお金を借りて出向いたインドネシアでみたそれは、彼女が住を手に入れるにふさわしい場所であった。友人達に常にインドネシアに住みたいと話した結果、インドネシア大使館でその切符を発見する、そして見事獲得。現地人と結婚、晴れてインドネシア人に。

 これを願望達成といわずしてなんといおうか。「だから、若い頃にやりたいと思えばやれるんだってば!」笑顔で話すSachikoさん。

 さて、肝心のカルチャースクールはというと、結婚後、インドネシアの観光会社に10年間勤めた彼女は、しばらくブランクを挟む。その後、インドネシア語と日本語を教える教室を始めた。

「ところが思ったようには行きませんでした。2年たったあたりでそろそろたたもうかなと思ったんです。そんな矢先に現れたのが、『ももえさん』でした。」

共同経営、Yayasan「Anggun」の誕生
 Yayasanとはインドネシア語で非営利目的で社会活動を行うNGO団体や学校の事を指す。医療、教育、支援等インドネシアではたくさんの団体がある。

 さて、ももえさんとの出会いについてこう話している。「彼女もバリに長く住んでいて現地の男性と結婚していました。私が語学をやめようということも知っていたようで、それだったら一緒にやらないと声をかけてもらいました。ですから、このカルチャースクールは、ももえさんからお誘いがなければ、今はないかったかもしれません。」日の目を見るきっかけになったのは、やはり、続けたいという本心もあったのであろう。とにかく、2人はお互いの旦那も巻き込んでAnggunを立ち上げた。
 
 内容は、お互いの得意分野。「語学」と「バレエ」の2本立て。開始早々から、足を運ばれる方がいたという。「やはりこういった習い事ができる場所がなかったですから。大人もそうですが、お子さんを通わせられる方が多いですね。」当時この二つだった講座は現在では、空手、合気道、ヨガ、ピアノ・・・といった、様々な講座が開設されている。講師は主に、インドネシアに在住の日本人が多く、インドネシア人も教えに来るという。

 「利益団体じゃないから、仕事としては重くはないですね。存続することができれば、後は楽しく楽しくできることを考えています。」そう語るSachiko校長のもとには、取材中も子供達が相談をしにやってくる。それに答えるのも又、楽しいという。
今も人生経験させてもらっています。
 こちらに来て、36年ともいえば、バリでは知らない人はいないぐらいの経過となる。ところが彼女に良かったことを聞けば、「毎日訪れる人たちから、色んな話や経験を聞くことができて幸せですね。私とは違う人生経験を聞けることは、本当に楽しいですよ。」

 今日も、奥ばった場所に構えるAnggunの建物の中では、子供達の声やピアノの音が聞こえることであろう。そして、それを楽しそうに見つめる女性は今日も訪れる人たちから新しい経験談を聞いて楽しんでいることであろう。

バリカルチャースクールanggun代表Sachiko氏とビジネスバックパッカー

日本の方へのメッセージ
 今回、ご取材したSachikoさんは、国籍の変更、改宗、就職、起業など、海外で様々な経験をされている。そんな彼女の言葉・経験から一つ参考となりそうな言葉を届けたいと思う。

国籍を変えられれましたが、それについてどうお考えですか?

 「そもそも、昔はなかったものですから、人間が生活しやすいために作ったルールだと思っています。ですから、国籍に意味を見つける必要はないのではと、私は思います。その国で暮らすときに、その国の国籍であれば同等の扱いを受けられるということではないでしょうか」

今日本は、もう駄目だ等とあまり前向きな発言をメディアでは見かけません。それに対してどうお考えですか?

「一番上の人を尊敬しないというのは、ちょっとおかしいですよね。あれだけ、文句言われてけなされちゃったら、総理大臣もやる気なくなっちゃいますよね。もうちょっと後押しすることができたら良いですよね。日本人っていい意味でも悪い意味でも、『熱が伝わりやすい』と思います。一致団結といいますが、盛り上がっているのは実は一部の人たちだけですよね。まじめで頭がいい民族であると同時に、そうであるからこそかもしれませんが、『人間が全てできなくてはいけない』といった兆候があるように感じます。こちらでは神様が決めるような風潮がありますから、何か色々なことが働いてこうなっている、であったり、遺伝なんかでも生まれてみないとわからない、といった自然に任せる感はありますよね。」

つい最近、豚(新型)インフルエンザが日本で流行りました。ところが海外を見れば日本ほどあわてている様子はありません。何故だと思われますか?

「バリについて言えば、熱が伝わりにくいという点ではないでしょうか。そもそも情報が伝わっていない可能性もあります。先ほど日本は熱が伝わりやすいといいましたがその逆ですね。更に言えば、明日の生計を立てるのに必死な人間から見れば、だから何だと思うかもしれませんね。」

昨今、海外志向という言葉があります。海外で働こうであったり、一度国から離れて自国を見直してみようという考えです。私などもそれに賛同しているのですがいかがお考えですか?若い方に向けてのメッセージも含めてお願いいたします。

「海外に出てみても、見ていないことがあるし、出たから見えるものでもないと思います。それよりは、いかにして『受け入れるか』を考えた方がいいのではと思います。そもそも国境だって国が、人が勝手に作った物ですから、越えるとか越えないといった話ではないかなと。それよりも、今日本で生き残るためには、年寄りがこれだけ多くなってきて労働力が減ってきた中で、外人を受け入れるしかないという柔軟な気持ち・発想をもつことも重要ではないでしょうか。何を言っていても今後そうなっていくという現状の中で、更に浮き彫りになったときに、生き残るための行動が生まれるのではと思います。疑うという危機感にかけている事に関して言えば、海外では何でも疑いますから行ってみてもいいかもしれませんね。」

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