menu

経営破綻寸前の通貨危機時代を救ったもの、それは誠実な心 ICHIYA/パパイヤ代表 市原和雄さん

Ichiya masuya 市原氏 時は1997年、日本はバブルがはじけ、失意の雰囲気が漂う中、ここインドネシアでは、一人の男が命をかけて戦っていた。市原和雄37歳の時である。

 タイを皮切りに迫り来るアジア通貨危機。市原の会社もまた、その余波を受けていた。1300社の売り先からの支払いは600社のみ。残り700社は支払拒否、夜逃げ、倒産と、回収がままならない状況だった。自身の給料は50%カット、現地・日本人社員も給料大幅カット。生活ギリギリ、そんな中でも誰一人逃げず、立ち向かった。
 数ヵ月後、支払い先の取引の企業への返済はほぼ終わった。残す2社、1億円以上の返済を残して。支払期限は直前、だが、どう頑張っても返済の目処は立たない。

 市原が倒産を覚悟した瞬間、物語は始まっていく・・・。

海外への関心は先輩から渡された三国志
 大学時代は拓殖大学。建学の精神は「海外雄飛」。日本人が海外で活躍する事を意している。市原がその言葉に惹かれて入学したかといえば、そうではない。高校時代から行っていた応援団を大学でも行いたく、兄からの進めもあり拓殖大学を選んだ。硬派なイメージを感じさせるその風貌は、「高下駄、番傘、マント」を背負った高校時代の応援団団長時代からのものであろう。

 ところが、高鳴る思いを胸に入学してみれば、部の不祥事もあり応援団がないという。失意に落ち込んだものの、それならばこの学校で一番強い運動部に入ろうと、当時一番強かった空手部へ入部した。先輩からの命令は絶対である。ある日、読め、と「三国志」を渡された。本を読むのが嫌いなものの、毎日執拗にどこまで読んだかを聞かれては適わない。嫌々ながらも読み進めてみれば、流石は多くの者達を魅了した三国志、本嫌いの男を見事に虜にした。
19歳の秋、初めてアジアの計り知れない凄さを知った瞬間であった。
 
 一度はまれば、深く知りたくなる性格。アジア・世界の歴史に興味を持った市原は、司馬遼太郎を始め、様々な本を読み込んだ。建学の精神「海外雄飛」の一環を利用して、補助金を手に海外へも飛んだ。1981年、大学三年生の時に見た国はシンガポール、香港、インドネシア。市原の心をがっしりとつかんだのは、ごちゃごちゃしたイメージの香港、綺麗だが圧力を感じたシンガポールではなく、雄大で包容力を感じさせた、インドネシアであった。

 インドネシアに行ってみたい、そう思った頃に始まった就職活動。親からの薦めもあった警察官になるか、インドネシア専門の商社へ行くか最後の決断に迫られていた。
俺はもっともっと飛躍できるノミだ!
 親からの薦めは警察官、自身の希望は商社。どちらに行くか決心した市原は父母に伝える。
「ノミは俺なんだ。もっともっと飛躍できるにもかかわらず、警察官というマッチ箱に入れられると俺は活躍できなくなる!」
 ノミをマッチ箱に入れると、箱から出してもノミはその高さまでしか飛べなくなる。市原は、自身の可能性を信じて、たとえ話を元に両親を説得した。

 勤めた商社では、インドネシアと日本を又にかけた貿易を行った。1年間、日本で勉強してから3年間インドネシアで働いた。そんな中、地元の日本食を扱う料理店や小売店からは日々、相談事をされた。内容は「生鮮食品を卸してほしい」というものであった。保険のない国での生鮮は難しいと、会社からの許可は出ない。市原はこの時、心の中で決めていた。3回断られたら自分で会社を興そうと。自信はあった。流通も求めていた。会社も又マッチ箱だったのかもしれない。彼が飛躍するための3回目の返事は、「NO」であったが、市原はそのマッチ箱を突き破り独立した。

一度目の試練、ピストルに怯える日々
 3年間の駐在の中で、信頼できるスポンサーは既に見つかっていた。銀行の頭取を勤める中華人。彼にオーナーになってもらい、市原は会社を立ち上げる。26歳の時だった。会社はそこそこ上手くいった。日本食レストランからも喜んでもらえた。全てが順調に行くかと思えたその時に、まさかピストルを持って押しかけてくる人間が来るとは思いもしなかった。

 オーナーが頭取を務める銀行が倒産したのだ。きっかけは、定期預金に対して税金をかけるという政府の政策。「インドネシアよりもシンガポールの方が預金がいい」、そんな言葉を聴きつけて、引き出しが相次ぐ。一行目、別の銀行が倒産。一行倒産すれば危機感覚は更に増す。引き出しが相次ぎ銀行は立て続けに倒産していった。連鎖倒産の中、オーナーの銀行も3番目に倒産した。
 
 預金者は毎日のように、市原の元へも詰め掛けた。市原がオーナーと仲がいいのは周知の事実。預金者は、資産を蓄えている華僑や政府、軍の者たち。軍人はピストルを携えて「オーナーはどこだ!」と市原に詰め寄った。「私もお金が戻ってこないんだ!」と、必死の説得の日々が続いた。

 オーナーはどうなったかと言えば、国外逃亡していた。逃亡は実に見事なものであった。パスポートを片手にオーナーは皆の前で、「今日じっくり考えて、明日発表する、逃げも隠れもしない」と言い残してパスポートを渡しみんなを帰した。深夜水辺ではクルーザーの音がする、オーナーのクルーザーの音だ。パスポートがあれば流石に国外逃亡はしないだろうという、皆の考えを逆手にとり、事前にコピーを作っておいた。当時を考えれば、命を守る術であったであろう。悪い事をしているわけではないだけに当然の感もある。落ち着きを払ったの見据えた10年後、戻って牢屋に入った。今はどこかでのんびりと生活しているという。

 そんな状態だから、会社も続けることが困難になった。パートナーがいなくなったため、一度会社をたたみ再起を賭けることにした市原は、新しいパートナーを紹介され、現在のMASUYAを立ち上げる。

 インドネシアで資本パートナーを見つけることは難しいことではないという。問題は、一緒にやっていけるかどうか。日本人が「パートナーに騙された」という言葉を良く聞くというが、ローカルパートナー側の意見も聞いてみると、どうもそうではないと市原は言う。「日本人に問題のあることの方が多いですよ。」
 
 とにかく、パートナーも新しく見つけ、再起をかけ更に飛躍を目指す男にとって、次にやってくる試練は、気丈にこらえたものの、裏では彼の心臓にメスをいれさせる程のダメージを与えた。

突然襲ってきたアジア通貨危機、1300社分の回収は約半分!
 MASUYAは食品卸業者として順調な伸びを見せる。内部留保、個人資産共に徐々に増えていった。一社目から一緒にやってきた8人のスタッフと共に、売り上げ、社員数を伸ばしていく。一社目の立ち上げ時から世話になった、キッコーマン醤油を主力に、サントリー、日本ハム、紀文・・・と代理契約も増えていった。

 そんな中、時代がもう一度、市原に試練を与えた。

 1997 年、タイを皮切りに猛威を振るったアジア通貨危機。インドネシアの通貨「ルピア」は一日ごとに下落していく。札束が紙切れになっていく。仕入先や邦人給料への支払いは円払い。ルピアでの払いは、6倍に差を広げていった。信頼を得たために獲得した支払い条件も災いした。出港の90日後に支払うクレジット契約を結んだため、1日ごとに膨らんでいく為替差損を、ただ眺めるしかなかった。これまでに蓄えてきた内部留保は底を尽きた。個人資産もつぎ込んだ。メインバンクも今回の影響で引き出しが出来ない状態が続いた。資本パートナーも他会社で打撃を受けていたため、協力を得ることが出来ない。

 約1300社の売り先からの集金では、約600社からしか反応がなかった。残り約700社は支払拒否、夜逃げ、倒産と回収がままならない状況に陥る。返済のために削られるものは何でも削った。自身の給料はもちろんのこと、日本人・現地社員給料も大幅カット。皆生活ギリギリだった。そんな中でも誰一人逃げず、立ち向かった。市原曰く、「実は首にならないことに社員はホッとしていたようです。」

倒産を救ったのは3社の男達
 数ヵ月後、支払い先の企業への返済はほぼ終わった。通貨危機の暴落も落ち着き始めてきた。しかし残す2社が最も難題。1.6億円以上の返済が残っている。すっからかんの状態であるが、支払期限は直前、どう頑張っても返済の目処は立たなかった。「倒産を覚悟しましたね。あれほど経営者として悔しかったことはなかったです。ところが、助けてくださった方々がいたのです。あの3つの会社には今でも足を向けて寝られませんよ。」

 返済を待っていた太平洋貿易、三和海産の2社からの返事は意外なものだった。市原の人柄、これまでの紳士的な付き合い、支払期限の厳守といった今までの信用の上で、太平洋貿易、三和海産が出した決断は「いつまでなら返済できるか?無理のない期間を提示してほしい。」という事実上「いつまででも待つ」というものであった。通貨危機が落ち着いてきたのを見計らって市原が算出した期間は、2年半。両社共、市原を信頼してGOサインとなった。

 市原を助けた3社目は大塚製薬であった。融資先へと、大和銀行(現:りそな銀行)を紹介するなど、MASUYAの財務状況を助けた。

 この奇跡的な協力もあり、通貨危機を乗り切ると、今度はルピアが強くなった。差益から利益が発生したため、2社へ一括返済できるぐらいの内部留保ができた。ところが、ここでも心遣いをもらうことになる。返済は現状どおり2年半で、その資金を今後同じことが起こっても大丈夫なよう増強にまわしてくださいというものであった。
 余った資金は、大塚製薬との合弁会社設立費に投資し、ポカリスウェットの生産工場を設けた。1989年、月50カートンだったMASUYAのポカリスウェットの販売は、その後50万カートンになった。

実際にやってのけて、どうだ!
 高校時代から一貫して硬派な男は曲がったことが大嫌い。格好をつけることはナンセンスで、ありのままの実直さが大切だという彼の目は、優しそうでとても澄んでいるが、圧倒的なオーラも兼ねそろえているように見える。「ふんぞり返ってどうだ、という見た目の格好よさではなく、実際にやってのけて、どうだ!と言いたいですね。」
 
 市原のそういった考えは実際に形としてみることが出来る。通貨危機時代の給料カット分は、なんと社員へ全額還元した。「とにかく給料カットだなんて、みっともない、経営者として失格」と市原は、「必ずこの分をいつか返す」と心に誓ったという。内部留保に余裕が出来たとき、一括で皆に返済したところ、驚いたのは社員。「まさか返ってくるなんて思ってなかったでしょう。喜んでいる社員を見て、どうだ!と嬉しくなりました。あっ、もちろん自分の分も取り返しましたよ(笑)。」これを機に社員との信頼関係は益々強くなった。笑いながら語っているが、昨今の日本の企業をみていれば、とても真似の出来ることではない。

スーパーマーケット、コンビニエンスストア、パン屋・・・
 MASUYAの名を知る日本人は少ない。市原の事業は、日本食スーパーマーケット「papaya(パパイヤ)」として、インドネシアに住む日本人に知られている。

 市原が卸をやっている中で、どうしても始めたかったのは「スーパーマーケット」だったという。資金に余裕が出来たため1995年一号店をオープンした。スーパー運営の師匠は西友の杉田氏。彼からスーパーマーケットでのノウハウと楽しさを教えてもらった。

 スーパーマーケットは順調に進んでいたものの、中国で2009.10頃に発生したメラミン問題 の影響を受けて、外国商品の輸入販売が厳しくなった。商品が来ない原因は、個々の商品番号の登録が遅れているためだ。今まで形だけあった政策制度を本格稼動したため、混乱が生じていた。かつての日本が戦後からの復興に向けて少しずつ法整備が整っていったように、インドネシアもまた、一つ一つの危機の度によりクリーンな制度に変わってきているという。

 スーパーマーケットは、市原を益々幸せにさせた。卸では見えなかったエンドユーザーつまり、消費者の顔が直で見られるためだ。「お客様がですね、一つ一つ手にとってかごの中に入れていってくださるんですよ。レジでお金を払って出て行かれるときの表情は嬉しくてしょうがないですね。あー、スーパーマーケットやってよかった!と思う瞬間です。」と語る。

 ところがコンビニ進出には相当なためらいがあった。元々、打診はあった。工業団地のためにコンビニを作って欲しいというもの。しかし、物流コスト、人材の面からどう考えても上手くいかない。打診は既に3回断っていた。「ところがですよ、この会社の方はなんと、4度目の打診を持ってくるわけです。もうこれは、意地ですよ。そこまで見込まれて断っていいのかと?日本人の彼が、同じ日本人のために協力してくれと言ってきているのに断っている自分はなんとキャパの狭い男だと感じました。ですから利益度返しで始めましたよ。」この男もまた、熱い魂を持った男であった。ついに折れた市原は、逆に闘志みなぎって、このコンビニ開発に取り組むこととなる。結果は「当たったんですよねぇ。」それを見て道沿いの他の工業団地も手を上げた。同じ道筋に2軒、3軒と店が出来れば、自然と搬送費のコストがカットできた。

 パン屋事業にも取り組んだ。今回、取材したスーパーマーケットの2階には惣菜製造室があった。通常スーパーと同フロアにあるその製造室が何故か2階にある理由を、「インストアベーカリーがですね・・・。」と語る。市原がある日出会った「児島」という男が作るパンがたいそう旨い。元々パン屋を入れようと思っていたものの、市原としてはどうしてもこの男のパンをお客に提供したいと思った。ところが児島もまたプロ。「インストアでないとパンを作らない」と言う。味と人材に妥協をしたくない二人の男のせめぎあいの結果、惣菜製造室を2階へ連れて行くこととなった。「スーパーマーケットを始めるようになってから、一般のお客様の声を聞く機会はとても増えました。そんなお客様のために最高の物を提供したいという思いは、益々強くなりますよねぇ。」

ダイソー、モスバーガーのフランチャイズ化
 現在、インドネシアには、日本のダイソー、モスバーガーが入っている。これらは、グループ会社がフランチャイズとして展開している。これもまた、スーパーに通うお客からの要望であった。「100円均一ショップが欲しい」と言う、お客の要望に、市原が出した答えは「NO1のダイソーと手を組みたい」。

 早速、代理店願いのアポイントを取るものの、答えはNO。懲りずに2度目、3度目を送る。これまたNO。「代理店が無理なら購入させて下さい」と、4回目は商品の購入に関する連絡をした。結果4回目に、「一度お会いしましょう」という返事をもらう。市原の凄さは、その行動力にある。返事をもらって直ぐに広島行きのチケット手に取り、2日後には広島の地に着いていた。「嬉しくて先方と早くお会いしたい。」と。

 広島のダイソーに赴けば、歓迎ムードで迎えられた。だが、待合室に通されるものの、社長は来ない。市原は「お忙しいのだろう」と、目の前の雑誌やテレビを、同行した者と眺めていた。30分後、「社長がいらっしゃって、最初の一言目は、『儲かりませんよ』と苦笑いしながらおっしゃられました。そして代理店許可のお話をなんといただいたのです。帰りがけ同行したものが、待っている間、待合室の後ろでウロウロされていた方って矢野社長じゃないですか?と言うんですね。ちょうど、帰りの飛行機の中で読んだ雑誌が矢野社長のインタビューで、『待っている間の様子を伺って人格を見ている』と書いてあるもんだから、たまげました。予習しておけばよかったと(笑)。社長は高慢な態度が一切なくて、私、あぁいった人になりたいなぁと思いましたねぇ。」

 (モスバーガーもまた面白いストーリであった。こちらの内容は、別で取材したMASUYA社員の北村氏の取材記事に掲載するとしよう。なぜなら彼のモスバーガーの話に感動して、市原社長への取材願いに飛びついたからだ。)

どうせやるならNO1
 市原にとって「NO1」への思いは強い。この思いは、会社設立初期からの付き合いでもあるキッコーマンと組んだときから常々感じていた。「NO1になるには、セールス、商品等で、NO1になる理由があり、又、先代からの苦労があったからこそ、現在の地位にいるんですよね。又、他の企業がNO1と組んでしまったら市場競争も厳しくなります。ですからダイソーさんと組むときでもそうですが、うちはNO1の会社と組むことを意識しており、自分達も常にNO1を目指しています。」

市原流社員育成術
 現在社員は、日本人16人、現地人は1400人に及ぶ。市原の考えるインドネシア人と日本人に対しての育成方法は違う。インドネシア人はメンタル的に日本人に比べて弱い。これは環境がそうさせているのであるから仕方がない。基本的には怒らずかわいがって伸ばす。もちろん操業当初からやってきた現在は管理職の現地人や、日本人に対しては違う。「もちろん怒りますよ。でもしっかりと理解してくれます。」

 管理職の社員には、権限を与える。失敗したら穴は自分が拭く。その覚悟は常に出来ている。実際、社員に指示をしたり社員教育をすることはあまりない。「うちで働くのに、上からの指示待つタイプの方は辛いと思いますよ。自分からやる気のあるタイプには、やりがいがあるのではないでしょうか。」

失敗した事業は20以上、それでも日々挑戦
 常に、新しいチャンスに対して貪欲な市原だが、失敗も数多くした。個人的に投資・設立して失敗した事業は20以上に及ぶ。業種も様々で、トマト畑から様々だ。「トマト畑は最終的には上手くいかなかったものの、男のロマンを感じさせてくれましたよ。あたり一面、自分の農地ですから。さながら、城造りで陣頭指揮をする大将のような気分を味あわせてくれました。もちろん会社に迷惑はかけられないので、会社に関係のないところで行いましたが。」
 当然のように話すが、オーナー企業というのは、オーナーが公私混同することが非常に多い。そういったところからも、彼の人柄がうかがえる。真面目で実直、行動は大胆。市原の考える成功の秘訣は「まずは誠実に人づくり。良い仲間が出来れば自然とお金もコネクションも増えていきます。」

 時には社長自らスーパーのレジに立ち、お客の表情に喜びながら、今日も大勢の社員たちの活躍に目を潜めていることであろう。

 :

海外に進出する人たちに向けて

「日本の景気が悪いから海外に出たらうまくいくかというと、うまくいったりうまくいかなかたりですね。海外に出てくるエネルギーを国内で行うのも一つかと思います。もし海外を狙うのであれば、どっぷりと取り組む覚悟がいりますよね。会社も家も売り払って出てくる覚悟があるかどうかでしょう。もしくは、会社の中の優秀な社員に日本を任せて、自身がどっぷり取り組む覚悟で出てくる必要があるでしょうね。中途半端では上手くいかないでしょう。一攫千金というのはないと思うんですよね。最低一年で芽が出れば早い方だと思いますから、1年未満で出そうという気持ちでは考え直した方がいいかもしれません。」

若い方に向けて

「マッチ箱とノミの話ではないですが、自分の可能性を信じてチャレンジした方がいいと思いますね。海外でも日本でもそれは同じです。誠実に人づくりをしていってください。多くの信頼できる友人が出来ていく中で、お金やコネクションというのは後からついていきますから。」

PAGE TOP