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在日9年日本の田舎を愛す男がベトナムITの道を灯す

 紹介されてからこれまで、ベトナム語をほとんど耳にしたことがない。とは言うものの彼は生粋のベトナム人。NAMさん、33歳。現在、。青春時代に日本を9年経験した彼の口からでる日本語は非常に流暢で、時として風情を感じさせる日本語には、筆者も思わず息を呑んだ。

日本行きを決意させたのは
オフショア開発「VTMベトナム」の副社長ナム氏
 今から15年前。NAMさんは、高校卒業後の進路を考えていた。両親から日ごろ言われていたのは「何でも経験しなさい」。決して海外にあこがれていたわけではないが、国内での経験と国外から得られる経験は又違うだろうと思った。異国の地で勉強してみたい、そんな諸外国で候補に挙がったのは、カナダ、フランス、オーストラリア、日本。アメリカは未だ国交正常化をしようとしている次期で受け入れ態勢としては、決してよい状態ではなかった。

 彼の頭の中には、この国へ行くという希望があったわけではなく、「日本を選んだ一番の理由は近かったからです(笑)」、そこは他にも理由あるだろうとの筆者の問いかけに、少し沈黙後、「奨学金の試験が日本が一番早かったから(笑)そして運良く合格したから。」彼が取材中よく口にした「うといですから」、その言葉の奥底には、動揺しない、揺るがない自分がいるように感じた。

 日本への奨学金試験には、全国から応募があった。書類選考を通った30名程が実際に首都ハノイにある試験場に向かった。試験内容は、数学を始めとした学力試験と、日本への関心について。よく言えば正直者、彼が答えた志望理由は「日本は近いから」。ナムさん自身も、運が良かったと語ったその試験は見事合格、晴れて7名の日本行きが決定した。奨学金は年間約150万円。その一部を片手に彼は海を渡った。

行き着いた先は東京、その時代の日本は。
 1995年。「地下鉄サリン事件」、「神戸大震災」。日本はこの年、2つの話題で大きく揺れていた。そんな年の桜の季節に彼はやってきた。
 
 東京での暮らしは、学費こそ免除であるものの、決して豊かではなかった。それでも彼には来たからには目的があり、「日本語と日本の文化を学ぶ。」こと。入学した先の日本語学校は1日約6時間。そのまま寮に帰宅し、4時間程日本語を勉強する生活を繰り返した。その間、ベトナム語も英語も耳にせず、とにかく日本語漬けにした。「クリスマスを越えてからぐらいは、英語の能力が衰えてきたので、オーストラリア人とも勉強しました。私が、ベトナム語を教えて、彼が英語を教えてくれました。」1年間の東京生活はこうして幕を閉じていった。

今でもあの海辺と桜を思い出します
 VISAには、「就学VISA」と「留学VISA」があることをご存知だろうか。前者は短く、日本語学校に通う際に発行される。延長は日本語学校の期間内(一般的に最長2年)迄でそれ以上の更新はできない。一方、留学VISAは奨学金等の施しを受けられ、日本語学校以外へも通うことができる。

 彼が取得したのは留学VISA。日本語学校を卒業後、山口県の電子機械系の高専へ進んだ。一緒に日本語学校へ通った郷の人たちもまた、各地方へ飛ばされていった。「行った先は『市』ではなく『町』でしたから、外国人なんて少なくとも自分の周りには一人もいませんでしたよ(笑)」しかし、それが幸いでした。生活の中で一切日本語以外の言葉を使うことはなかった。勉強は日本の高校生と一緒に電子機械を中心に勉強した。ロボット愛好会と名づけられた部活にも参加した。「学校の寮で生活しました。寮って先輩後輩の上下関係があるじゃないですか。でも私は既に19歳でみんなより年上ですから、みんな遠慮というか。縦社会の文化から抜け出した男です(笑)」

 山口県大島郡大島町(現:周防大島町)、そこは瀬戸内海に面し反対側は山に囲まれた自然溢れる町だった。農家のおじさん、おばさんと話しこんだ。漁夫には船に乗せてもらい、同級生達と釣りに行った。朝早く起きて海を見に行った。友達と夕日を前に海辺で語り合った。桜の季節には、花見にも行った。夏休みは、青春18切符を片手に東京まで行った。彼が山口の話しを始めると、東京での会話のときとは違い、どこか回想に寄り添っているような、ゆっくりした口調になっていった。

 日本語はもちろん勉強した。授業は全て日本語。教科書も日本語。先生の話す言葉はなかなか分からなかった。専門用語も多々あり、日本語の辞書を引きながら勉強した。寮での消灯は22時。予習が終わらないときはベッドの隅にある小さな明かりで勉強した。「ベトナム語で勉強していないから、実はベトナム語で書いてある専門書を読むと意味が分からないのです。単語は全て日本語(又は英語)で覚えたので(笑)」

 ゆっくりとした風土の中で日本を存分に味わいながら、高専の3年間を過ごした。卒業後の進路は、再び東京を選んだ。もちろん、試験は日本語だが見事合格。翌年から電気通信大学に通う事が決まり、山口を後にした。

再び返ってきた東京は山口とは違った
オフショア開発「VTMベトナム」の副社長ナム氏
 「都会嫌いになった。一人さびしく、悲しくなった。」

 楽しかった寮での集団生活、なれ親しんだ土地柄で優しく語り掛ける町の人たち。それらは、同じ国とは思えないぐらい東京は違った。高専の頃のようにいつも遊びに行くような友人はできなかった。なんだかせわしない町の流れに疲弊し精神的にダウンした。高専時代に積み立てたお金で、大学から少しはなれた自然溢れる土地にアパートを借りたのがせめてもの、安息感だった。「憧れていたはずなのですが、正直、都会が嫌いになりましたね。」

 奨学金は終了したので、アルバイトを始めた。皿洗い、文章入力、プログラミング等、いくつかの経験した。「アルバイトは色々しました。夏休み頃からアルバイト先でネットワークやソフトウェアの開発に携わりました。専門は電子機械のはずなんですけどね。当時それに関するアルバイトを見つけることができませんでした。ソフトウェア会社では、大学で学んだことは全く役に立ちませんでした(笑)。ですから、一から覚えました。小さな会社だったので、自分で勉強するしかなかったのです。」

 このソフトウェアの会社が、彼の転機になったのだから、世の中は面白い。結局現在に至るまで、大学で学んだ知識はあまり活用されていることはないが、この会社でのあるバイト経験は将来、如何なく発揮されることとなる。

日本とベトナムの架け橋に
 就職活動は熱心にしたというよりは、当時のアルバイト先からの正社員採用という形で、そのまま日本で社会人になった。ベトナムに帰るという選択肢は最早なかった。「大企業に入ったら、一から教えてもらえるじゃないですか。なので本当は大きい会社に入りたかったです(笑)でも小さい会社だったので、全部自分やれる技術は身につきました。」

 業務管理システムを主に作っていたその会社で、一年間日本で働いてからベトナム事務所に移転した。その頃からこの経験をベトナムで活かせないかと強く思うようになった。ベトナムでまた二年間働いてから、そんな折、大学時代のベトナム人の先輩が日本で会社を立ち上げており、ベトナムと日本に橋を架けて仕事をしていることを耳にしたので、先輩と一緒にベトナムで会社を作ってオフショア開発をする話しを受けた。

 現地のベトナム人社長と共に自身は副社長としてベトナムで会社をスタートさせた。久しぶりに帰ったベトナムには「チャンスがたくさんある」と感じたという。

日越を体験したから感じること
オフショア開発「VTMベトナム」の副社長ナム氏
 「私の仕事の一つは、日本からの開発の依頼をベトナムの現場に伝える事です。お客様のほしがる品質を伝える。日本人はより上質なものを求めますよね。それは、言葉や文字には含まれないことが多いじゃないですか。『こうは書いてあるけど、実はこんなことも彼等は思っているんだよ』と、日本での経験を踏まえて、解釈を加えながらお願いしてます。ベトナムでは、命令することはあまり好まれないですから。お願いして、できたら褒めて、その結果伸びてくれると嬉しいですよね。」

 これからも日本と関係のある仕事をしたいと話すNAMさん。そうでないと自身の価値がないとまで言い切る彼からは、「日本とベトナムでの仕事のやり方・文化を知っている財産」があるからであろう。
 
 くしくも取材先で利用した場所は、日本の桜が描かれた和風カフェ。「山口の五条の千本桜は毎年TVやネットで見ているんですよね。あれを見ると日本にいた頃を思い出します。」桜を眺めながら語る彼の表情からは、都会暮らしが長かった筆者に日本のわび・さびを思い出させる、不思議な感覚を思い起こさせてくれた。

 

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